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    記念艦 戦艦 三笠 【日露戦争】

    人類史上の一大転換点たる日露戦争の大勝利から110年目となる今年。
    当ブログでも2回にわたり日露戦争の記事を書いてきました。
    第3回目となる今回は、日露戦争大捷の象徴とも言える“戦艦 三笠”を取り上げてみたいと思います。

    三笠01

    イギリスはヴィッカース社で竣工し1900年に進水した“戦艦 三笠”。
    今では神奈川県横須賀市にある“三笠公園”でその勇姿を見、乗艦することができます。

    “戦艦 三笠”の前に建立されているのが、日本海海戦時、帝國海軍の聯合艦隊を率いていた元帥“東郷平八郎”大将の像。

    三笠02

    日本海海戦時に三笠艦上で指揮を執っていた時の様子をもとに作られています。
    手にしているのは皇太子殿下(後の 大正天皇)から拝領した“一文字吉房”。

    また同じく日本海海戦時の三笠艦上の様子を東城鉦太郎画伯が描いた「三笠艦橋の図」がこちら。

    三笠03

    ※使用している画像は“記念艦 三笠” 艦上にあるパネルを撮影したものです。

    ちなみにボクが初めて“記念艦 三笠”を訪れた9歳の時、この複製の絵を買ってもらい、しばらく自室の壁に飾っていました。

    最近は絵だけでなくこのようなフィギュア?も置かれていてなかなかの迫力です。

    三笠04

    「目標! おすとびしゃー(ロシア語やその発音に疎いわが将兵に憶えやすいように付けられたロシア戦艦オスラビアのあだ名) 4500!」ってな感じでしょうか。

    こちらは電信室。

    三笠05

    この電信室から有名な「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 聯合艦隊はタダチニ出動 コレヲ撃滅セムトス 本日 天気晴朗ナレドモ波高シ」の電文が打たれました。

    電文と言えばもう一つ。
    日本海に迫るロシア・バルチック艦隊の発見に努めた信濃丸から発信された「敵艦隊見ユ 456地点 信濃丸」が有名ですよね。

    その信濃丸の模型が艦内に展示されていました。

    三笠06

    日本海の制海権を維持し続けるにはロシア艦隊を全滅させなければなりません。

    小規模とはいえロシア・ウラジオ艦隊に暴れ回られた苦い記憶のある帝國海軍は、ロシア・バルチック艦隊の航路をすばやく見極め、波状攻撃をしかける以外になかったのです。ロシア艦隊を追撃していたのでは間に合わないことは、ロシア・旅順艦隊との黄海海戦で実証済みでした。

    なので対馬沖から東シナ海までの10隻の仮想巡洋艦を配備した哨戒網を張りロシア・バルチック艦艇を見張っていました。
    その1隻が信濃丸だったのです。

    ちなみにこの信濃丸は大東亜戦争では輸送船として活躍。かの水木しげる先生を南方に輸送した船としても知られています。

    もちろん三笠を初めとした帝國聯合艦隊艨艟の模型もあります。

    三笠07

    手前に写っているのが三笠と同じく第1戦隊に属した“戦艦 朝日”。

    おや、こちらの艦は煙突が黄色いですね。

    三笠08

    そうです。硝煙の煙や水煙の中でも、ばっちり目立って聯合艦隊の将兵も狙いやすかったというロシア艦の煙突です。

    写真に写っているのは“くにおやじすわろう”ことロシア戦艦“クニャージ・スウォーロフ”と“あきれさんた”ことロシア戦艦“インペラートル・アレクサンドル3世”です。

    そしてこちらがボクの大好きな“日本海海戦 海上ジオラマ”

    三笠09

    解説と共に帝国聯合艦隊、ロシア・バルチック艦隊が移動するという楽しい仕掛け。
    ちゃんと水柱も上がります。
    昔からあるものだけれど、いつまでもなくならないで欲しいですね。

    ちなみにボクの息子も大好きで何度も見ていました。

    ロシア海軍を迎え撃った兵装を見てみましょう。

    三笠10

    まずは、主砲の40口径30.5センチ連装砲。

    照準はピタリとロシアの方向へ向いています。

    続いて速射砲群。

    三笠11

    三笠12

    最近はケガをすると危ないってンでいろいろな展示品を動かなくしてしまうことが多いですが、「この砲はまだ生きている」(映画「日本海大海戦」で当銀長太郎サン演ずる水兵さんの台詞より)って感じで動かせるものもあります。

    このような装備で、大陸での劣勢を挽回するべく地球を約半周してやってきたロシア・バルチック艦隊を全滅させたわけですね。

    ロシア・バルチック艦隊の司令長官“ロジェストヴェンスキー中将”は旗艦“クニャージ・スウォーロフ”艦上で重傷を負い、駆逐艦“ベドーヴイ”に移乗していたものの我が駆逐艦“漣”に捕らえられてしまいました。

    副将であったロシア・第3太平洋艦隊の長官であった“ネボガトフ少将”は戦艦インペラートル・ニコライ1世にて指揮を執っていましたが、鬱陵島付近で我が艦隊に包囲され降伏しました。

    その際、ネボガトフ少将が降伏のために三笠にやって来た時に使用した門がこちら。

    三笠13

    その際、東郷司令長官は武人の礼儀として士官には帯剣を許し、ネボガトフ少将がロシア皇帝に戦況報告ができるよう尽力しています。

    それに引き替えソビエット・ロシアは、先の大戦で一方的に不可侵条約を破り、そのことを本国に伝えようとした日本の通信を遮断してしまいます。また満ソ国境を蹂躙後、民間人を含む多くの人々を虐殺し、兵士をシベリアに抑留しています。

    そのような国を相手に話し合いで領土(北方四島や樺太、満蒙の利権)が返るはずはありませんよね。

    日本晴れの空、三笠のマストには、かの“Z旗”が翻っています。

    三笠14

    “Z旗”の謂われはこちらに書かれています。

    三笠15

    大日本帝国、日本人、亜細亜人、いえすべての有色人種を救った“戦艦 三笠”

    三笠16

    いつまでも日本人の心のよすがとしたいものです。

    〈おまけ その1〉

    三笠艦上で米軍基地の方を眺めていたら、なんとこんな光景に出会いました。

    三笠17

    おなじみ“オスプレイ”でした。

    離陸時のプロペラの様子はヘリコプターのようですが、離陸から発進までのスピードが速いのなんの。

    これでは我が国の離島を窺う某国とその思想的配下にある一部の連中はいやがるはずですよね。

    ちなみに日露戦争で我が国はイギリスと同盟を結んでおり、ロシア・バルチック艦隊が対馬沖にやってくるまで、陰に陽にイギリスの支援があったことも、私たちは忘れてはいけませんよね。

    〈おまけ その2〉

    “三笠公園”に行く途中の洋品店の店先で見つけたレトロ?布地。

    三笠18

    ファイヤーマン、ミラーマン、レッドマン、ブースカ、チャメゴン、チビラくん、ガキンコ、ママゴン、ポチポチ, etc.

    買おうかどうか迷ったけれど結局買わずじまい。
    今、こうして画像を見返していると、やっぱり買えば良かったーってことになってます。
    ※後で調べたら現行品のようです。

    〈おまけ その3〉

    実は“三笠公園”に行く前、“みさきまぐろきっぷ”を使ってちょいと顔を出した三崎港。

    三笠19

    選べるまぐろ食事券”を使っていただいた“海浜割烹 柳”さんの、“みさきまぐろきっぷ”の限定メニュー“三崎おもてなし御膳”。

    おいしうございました。

    本記事でも取り上げた“日本海海戦”を題材とした映画2本をご紹介します。



    東宝俳優陣の豪華さも見所ですが、矢島正明サンの淡々としたナレーションで語られるロシア艦の最期が哀れを誘います。



    安定の三船敏郎サン演じる東郷司令長官も良いけれど、三原順子サンも良いですよ、ちょっと可哀想な役所だけど。
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    東鶏冠山北堡塁【日露戦争】

    いよいよ5月末となり、世界史の大転換点の一つ“日本海海戦”での大勝利から110年を迎えようとしています。(その割には世の中的にはほとんど動きがないですが)。

    我が國では、この“日本海海戦”の勝利を記念して本海戦が行われた5月27日を“海軍記念日”として祝ってきました。

    本来でしたら、横須賀に鎮座する“記念艦 三笠”に行って来たいところですが、諸事情によりそれもかなわないので、今回は、日露戦争における激戦地“旅順要塞攻略戦”を巡る戦いの舞台となった“東鶏冠山北堡塁”のロシア軍要塞遺構をご紹介したいと思います。

    前回同様、使用する写真は、平成10年にボクが行った大連・旅順への旅行の際に撮影したものです。

    東鶏冠山01

    写真の中心に立っているのが「東鶏冠山北堡塁」と書かれた石碑。
    写真、右に立っているのが、ロシアのコンドラチェンコ将軍戦死の地を示す石碑です。




    日清戦争での我が國の勝利を見るや、かねてより不凍港獲得の機会をうかがっていたロシアは、我が軍将兵の尊い血潮で手に入れた旅順港を、三国干渉により清国に返還せしめます。
    その舌の根の乾かぬうちに、あろうことか自国がその旅順港を租借地として借り上げ、近代軍港と要塞を構築したことは当ブログ“水師営【日露戦争】”の記事で述べたとおりです。

    この旅順・大連の租借地を足がかりとして南へ東洋へと侵略の手を伸ばすべく、ロシアはベトン20万樽を注ぎ込み、世界屈指の近代要塞を築きました。いわゆる“旅順要塞”です。

    この要塞は海に向けての砲台を備えていたのみならず、陸上方面においても大小砲台はもとより、電気式鉄条網、当時の最新兵器・機関砲を配備していました。そして本防御線を二龍山、松樹山、椅子山、太陽溝台地、白狼山付近といった高地を結ぶ線とし、東北正面(東鶏冠山以南)、北正面(今回、ご紹介する東鶏冠山北堡塁より松樹山砲台)、西正面(椅子山以西)の三正面を配していました。さらにその全面には前進陣地が、かの二百三高地をはじめとする場所に設けられていました。

    この“東鶏冠山北堡塁”を陥とさない限り、“旅順要塞”は陥落せず、ロシアに東洋侵略をあきらめさせることはできないのです。

    よって我が乃木将軍麾下の第3軍は攻撃正面を二龍山、東鶏冠山の両砲台間に定め、強襲を持ってこの“旅順要塞”を陥落せしめんとし、明治37年8月19日より第1回総攻撃を敢行します。
    が、前述した新兵器とベトンで固めた要塞前に全軍ほとんど壊滅、24日の午後、やむなく総攻撃を中止しました。我が方の損害は15800名でした。

    我が軍総攻撃の主力は第1師団(東京)、第9師団(金沢)。
    その兵に多大の出血を強要したロシアの要塞を、“東鶏冠山北堡塁”の遺構で見ていきましょう。




    掩体

    東鶏冠山02

    ここに火砲を配備していたと思われます。




    堡塁大門

    東鶏冠山03

    当時は鉄製の大きな扉でもあったのでしょうか。




    トーチカの外観

    東鶏冠山04

    東鶏冠山05

    弾薬庫の他に“電話室”等の説明碑文がありました。

    東鶏冠山06




    ロシア軍兵舎

    東鶏冠山07

    長さ64メートル、幅2.7メートル、高さ5.1メートルのこの棟だけで300名のロシア軍将兵を収容できたそうです。

    東鶏冠山08




    多大な犠牲を払うことになってしまった強襲での奪取の方針から一転、我が軍は正攻法での奪取を企図します。

    本国から28サンチ榴弾砲を移動せしめ、このベトンの要塞をたたき壊すのです。

    明治37年9月下旬、海防の任に着いていた28サンチ榴弾砲が現地に到着、10月26日、遂に第2回目の総攻撃が敢行されます。
    が、またしてもロシア軍の猛烈なる火網に捕捉され、11月1日、3800名あまりの犠牲もむなしく総攻撃は中止されます。

    その直後、ロシアバルチック艦隊は、ロシア皇帝の見送りを受けつつ雪のリバウ軍港を後にし、東洋へ、日本へとやってくることになります。

    事ここに至り、 明治大帝のご差遣により、新たに第7師団(旭川)を戦列に加えた第3軍は、11月26日、いよいよ第3回総攻撃を開始します。

    攻撃目標は望台砲台(後日、写真をご紹介したいと思います)を含む望台高地一帯としましだ、攻撃は失敗。
    翌27日に攻撃目標を二百三高地へと変更します。

    27日、800発の28サンチ榴弾が二百三高地を叩き、それに呼応した第1師団が28日にかけて反復攻撃をしますが、容易には陥ちません。翌29日、第7師団も攻撃に加わり、12月5日、二百三高地、遂に陥落。旅順港に潜む敵、太平洋艦隊を無力化することに成功しますが、我が方の損害も17000名あまりとなってしまいました。

    二百三高地は陥落し、太平洋艦隊を無力化しても、“旅順要塞”に籠もるロシア軍を完全に叩いておかないと、我が陸軍は背後を脅かされる格好になり、クロパトキン軍と一大決戦を行うことができません。

    なおも攻撃は続行されます。

    そんな中12月15日(12日説もあり)、“旅順要塞”にその人ありと知られた第7東シベリア狙撃師団の師団長、コンドラチェンコ少将がわが28サンチ榴弾砲により戦死します。同将軍は前線において陣頭指揮を執り、ロシア軍の士気を高めること大でしたが、ついに“東鶏冠山北堡塁”の露と消えます。

    その死を惜しんだのはロシア側だけではなく、最初に紹介したコンドラチェンコ将軍戦死の地の石碑は我が国によって建てられました。

    28サンチ榴弾砲の砲撃、いかにすさまじいとはいえ、ベトンで固められた要塞を完全に破壊することはできません。

    そこで我が軍は坑道作業による爆破、すなわち、要塞の地下に穴を掘って強烈なる爆薬を仕掛け要塞の破壊を行います。

    その爆破口のひとつがこちら。

    東鶏冠山09

    この坑道作業により本防禦線堡塁を爆砕、明治38年1月1日、敵将ステッセルは我が軍に講和を申し入れ、ついに“旅順要塞”は陥落、前回ご紹介した“水師営会見”となり、旅順包囲を解いた我が海軍は、バルチック艦隊との決戦に備え、我が陸軍はクロパトキン率いるロシア軍主力との決戦に臨むこととなるのです。




    今は静かに眠るロシアの堡塁。

    東鶏冠山10

    旅順要塞は陥ちましたが、他国を侵そうしている今様の旅順要塞は地球上から無くなってはいません。

    旅順を陥とし、日本海の荒波に敵を沈め、日露戦争での勝利をもたらし國難から救って下さった英霊がいつまでも安らかにお休みつづけられる世の中であって欲しいと願っています。

     明治大帝 御製 「おのづから仇のこころもなびくまで 誠の道をふめやくにたみ」 

    旅順戦史を綴るにあたり「国防大辞典」(昭和7年刊行、昭和57年復刻版)を参考にしました。

    ということで、今年110周年を迎える“日本海海戦”を描いた名作がこちら。

    テーマ : 歴史雑学
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    水師営【日露戦争】

    今年、平成27年(西暦2015年)は日露戦争の勝利から110年目となります。

    そこで折に触れて、かつて行った旅順・大連で撮影した写真を公開していきたいと思っています。

    第1回目の今回は旅順開城110周年を記念して“水師営”の様子をご紹介したいと思います。

    その前に、まずはこちら“二百三高地”から。

    水師営01

    日清戦争の勝利で、わが領土となった遼東半島。
    ところが不凍港そしてアジアへの進出を虎視眈々と狙っていた帝政ロシアは、フランスとドイツを誘って、遼東半島を日本が手中に収めることは、東洋平和に害がある、我が国に対し、いわゆる“三国干渉”を行ってきます。

    当時の日本は、ロシア、フランス、ドイツを向こうに回しての戦争はできず、やむなく、この“三国干渉”を受け入れ、遼東半島を手放します。

    ところが、ロシアはその遼東半島を租借地とし、旅順の名ををロシア語の“ダルニー”に改め、ここに東洋一と言われる一大要塞を建設します。
    さらに、その旅順港を根拠地とした太平洋艦隊(旅順艦隊)を編成し、我が国をますます圧迫してきます。

    加えて義和団事件が起こると、そのどさくさに紛れて満州にどしどし兵力を送り、他方、シベリア鉄道の複線化をはかり、満州、朝鮮そして我が国の独立をも脅かそうとしていました。

    このような経緯の中、やむなく我が国はロシアの野望を粉砕し東洋の安定を図るため、ロシアと干戈を交えるに至りました。

    大陸での作戦を続行するには“陛下の浴槽”日本海の制海権を維持し、兵員・物資を安全に大陸に輸送しなければならないのですが、ロシアは旅順艦隊と浦塩艦隊と使って日本の輸送船を襲ってきました。

    そうはさせじと帝国聯合艦隊は浦塩艦隊と旅順艦隊をたたきます。
    浦塩艦隊は蔚山沖海戦で撃滅させますが、黄海海戦で撃ち漏らした旅順艦隊の方は、この黄海海戦以降、湾内深く潜んで、艦隊決戦に応じようとしません。

    そんな中、劣勢を挽回するべくロシアはバルチック艦隊と黒海艦隊を太平洋に差し向けてきました。

    いかに帝国聯合艦隊が優れているとは言え、このような大艦隊を前に二正面作戦ができるはずもなく、陸軍がその背後から旅順艦隊を叩くことなりました…。旅順要塞を陥落させて…。

    ここで日露両軍により歴史に名高い“旅順攻城戦”が行われることになります。

    そして、その“旅順攻防戦”における最大の激戦地と言われているのが、この写真にある海抜203メートルの高地、“二百三高地”でした。




    水師営02

    「鐵血 山を覆ひ 山形改まる」
    乃木大将がこう詩に詠まれ、日露両軍の兵士の亡骸で埋まったその斜面は、今ではこうして楽に登ることができます。




    水師営03

    その“二百三高地”の頂に今も残る忠魂碑。

    大将・乃木希典将軍により“二百三高地”は爾の御霊の山、かなわち“爾霊山”と呼ばれるようになります。




    その“爾霊山”から旅順港を見下ろすと…。

    水師営04

    ここからの観測による“二十八糎砲”の射撃により、旅順艦隊は全滅し、聯合艦隊は後顧の憂いなく補給、修理を行うことができ、世界戦史にその類を見ない、“日本海海戦”の大勝利へと繋がっていくわけです。

    ※現在では旅順艦隊の全滅と二百三高地の観測地点奪取との直接の因果関係は否定されているものの現地に立って見下ろせば、彼我の優位の差は歴然で、ロシア海軍における旅順港の価値はなくなったと言っても良いでしょう。




    そして1905年1月1日16時。
    ロシア関東軍司令官、ステッセルはここに、我が乃木第3軍に和を乞い、旅順要塞を開城することとなりました。

    そして日露両将の会見の場所が、この水師営(もともとは清国の海軍、根拠地の意)です。

    水師営05

    歌人・佐佐木信綱による唱歌「水師営の会見」や修身の教科書でも広く人口に膾炙した有名な会見です。




    その唱歌「水師営の会見」の2番『庭に一本なつめの木 弾丸あとも いちぢるく』と歌われている“ナツメの木”

    水師営06

    この写真の木は、当時の木ではなく、この水師営会見場を整備するにあたり新しく植えられたものだそうです。




    やはり唱歌「水師営の会見」の2番『くずれ残れる民屋に いまぞ相見る二将軍』と歌われているその農家。
    一説には野戦包帯所だったとも言われています。

    水師営07

    この会見時、 明治大帝の聖旨により、今は敗軍の将となった敵将ステッセルとその幕僚には帯剣と勲章の着用が許されています。

    会見の中、ステッセル将軍は姿勢を正すと、乃木将軍に「この方面の戦闘でお二人のお子さんが戦死されたと伺いました」と哀悼の意を表します。

    それに対し乃木将軍は「二人のわが子はそれぞれに死所を得たと喜んでいます。これこそ武門も面目です」と力強く答えますが、心中はいかばかりだったでしょう。




    会見場は決して広い場所ではありません。

    そして歌詞にもあるように彼我の砲撃に曝され崩れ残った粗末な民家です。
    穴の空いた壁は応急処置として新聞紙で覆われていました。
    会見前にそれを見た乃木将軍は、我が軍の勝利が報じられている新聞をロシア軍に見せるのに忍びずとして白い布で覆わせたと伝えられており、その白布も再現されています。

    水師営08

    この会見に先立ち、アメリカの映画技師が、勝者である乃木将軍と敗者のステッセルの記録を撮らせて欲しいと申し出ます。

    ところが乃木将軍はこれを制し、会見終了後には敵も味方もなくなる、全員軍人として同列になったところなら1枚だけ写真を撮っても良い、と告げます。

    その写真が「会見場」と書かれた木札の上の写真です。




    奇しくも今年は先の大戦が終了して70周年となります。

    70年前の夏、我が国はソビエトロシアの条約違反とアメリカの原子爆弾と焼夷弾による非人道的行為によりポツダム宣言を受諾することとなりましたが、果たして相手の国に、この“水師営の会見”の際の 明治大帝や乃木将軍のような識見が少しでもあったでしょうか。




    水師営09

    明治大帝 御製 「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」




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