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    東鶏冠山北堡塁【日露戦争】

    いよいよ5月末となり、世界史の大転換点の一つ“日本海海戦”での大勝利から110年を迎えようとしています。(その割には世の中的にはほとんど動きがないですが)。

    我が國では、この“日本海海戦”の勝利を記念して本海戦が行われた5月27日を“海軍記念日”として祝ってきました。

    本来でしたら、横須賀に鎮座する“記念艦 三笠”に行って来たいところですが、諸事情によりそれもかなわないので、今回は、日露戦争における激戦地“旅順要塞攻略戦”を巡る戦いの舞台となった“東鶏冠山北堡塁”のロシア軍要塞遺構をご紹介したいと思います。

    前回同様、使用する写真は、平成10年にボクが行った大連・旅順への旅行の際に撮影したものです。

    東鶏冠山01

    写真の中心に立っているのが「東鶏冠山北堡塁」と書かれた石碑。
    写真、右に立っているのが、ロシアのコンドラチェンコ将軍戦死の地を示す石碑です。




    日清戦争での我が國の勝利を見るや、かねてより不凍港獲得の機会をうかがっていたロシアは、我が軍将兵の尊い血潮で手に入れた旅順港を、三国干渉により清国に返還せしめます。
    その舌の根の乾かぬうちに、あろうことか自国がその旅順港を租借地として借り上げ、近代軍港と要塞を構築したことは当ブログ“水師営【日露戦争】”の記事で述べたとおりです。

    この旅順・大連の租借地を足がかりとして南へ東洋へと侵略の手を伸ばすべく、ロシアはベトン20万樽を注ぎ込み、世界屈指の近代要塞を築きました。いわゆる“旅順要塞”です。

    この要塞は海に向けての砲台を備えていたのみならず、陸上方面においても大小砲台はもとより、電気式鉄条網、当時の最新兵器・機関砲を配備していました。そして本防御線を二龍山、松樹山、椅子山、太陽溝台地、白狼山付近といった高地を結ぶ線とし、東北正面(東鶏冠山以南)、北正面(今回、ご紹介する東鶏冠山北堡塁より松樹山砲台)、西正面(椅子山以西)の三正面を配していました。さらにその全面には前進陣地が、かの二百三高地をはじめとする場所に設けられていました。

    この“東鶏冠山北堡塁”を陥とさない限り、“旅順要塞”は陥落せず、ロシアに東洋侵略をあきらめさせることはできないのです。

    よって我が乃木将軍麾下の第3軍は攻撃正面を二龍山、東鶏冠山の両砲台間に定め、強襲を持ってこの“旅順要塞”を陥落せしめんとし、明治37年8月19日より第1回総攻撃を敢行します。
    が、前述した新兵器とベトンで固めた要塞前に全軍ほとんど壊滅、24日の午後、やむなく総攻撃を中止しました。我が方の損害は15800名でした。

    我が軍総攻撃の主力は第1師団(東京)、第9師団(金沢)。
    その兵に多大の出血を強要したロシアの要塞を、“東鶏冠山北堡塁”の遺構で見ていきましょう。




    掩体

    東鶏冠山02

    ここに火砲を配備していたと思われます。




    堡塁大門

    東鶏冠山03

    当時は鉄製の大きな扉でもあったのでしょうか。




    トーチカの外観

    東鶏冠山04

    東鶏冠山05

    弾薬庫の他に“電話室”等の説明碑文がありました。

    東鶏冠山06




    ロシア軍兵舎

    東鶏冠山07

    長さ64メートル、幅2.7メートル、高さ5.1メートルのこの棟だけで300名のロシア軍将兵を収容できたそうです。

    東鶏冠山08




    多大な犠牲を払うことになってしまった強襲での奪取の方針から一転、我が軍は正攻法での奪取を企図します。

    本国から28サンチ榴弾砲を移動せしめ、このベトンの要塞をたたき壊すのです。

    明治37年9月下旬、海防の任に着いていた28サンチ榴弾砲が現地に到着、10月26日、遂に第2回目の総攻撃が敢行されます。
    が、またしてもロシア軍の猛烈なる火網に捕捉され、11月1日、3800名あまりの犠牲もむなしく総攻撃は中止されます。

    その直後、ロシアバルチック艦隊は、ロシア皇帝の見送りを受けつつ雪のリバウ軍港を後にし、東洋へ、日本へとやってくることになります。

    事ここに至り、 明治大帝のご差遣により、新たに第7師団(旭川)を戦列に加えた第3軍は、11月26日、いよいよ第3回総攻撃を開始します。

    攻撃目標は望台砲台(後日、写真をご紹介したいと思います)を含む望台高地一帯としましだ、攻撃は失敗。
    翌27日に攻撃目標を二百三高地へと変更します。

    27日、800発の28サンチ榴弾が二百三高地を叩き、それに呼応した第1師団が28日にかけて反復攻撃をしますが、容易には陥ちません。翌29日、第7師団も攻撃に加わり、12月5日、二百三高地、遂に陥落。旅順港に潜む敵、太平洋艦隊を無力化することに成功しますが、我が方の損害も17000名あまりとなってしまいました。

    二百三高地は陥落し、太平洋艦隊を無力化しても、“旅順要塞”に籠もるロシア軍を完全に叩いておかないと、我が陸軍は背後を脅かされる格好になり、クロパトキン軍と一大決戦を行うことができません。

    なおも攻撃は続行されます。

    そんな中12月15日(12日説もあり)、“旅順要塞”にその人ありと知られた第7東シベリア狙撃師団の師団長、コンドラチェンコ少将がわが28サンチ榴弾砲により戦死します。同将軍は前線において陣頭指揮を執り、ロシア軍の士気を高めること大でしたが、ついに“東鶏冠山北堡塁”の露と消えます。

    その死を惜しんだのはロシア側だけではなく、最初に紹介したコンドラチェンコ将軍戦死の地の石碑は我が国によって建てられました。

    28サンチ榴弾砲の砲撃、いかにすさまじいとはいえ、ベトンで固められた要塞を完全に破壊することはできません。

    そこで我が軍は坑道作業による爆破、すなわち、要塞の地下に穴を掘って強烈なる爆薬を仕掛け要塞の破壊を行います。

    その爆破口のひとつがこちら。

    東鶏冠山09

    この坑道作業により本防禦線堡塁を爆砕、明治38年1月1日、敵将ステッセルは我が軍に講和を申し入れ、ついに“旅順要塞”は陥落、前回ご紹介した“水師営会見”となり、旅順包囲を解いた我が海軍は、バルチック艦隊との決戦に備え、我が陸軍はクロパトキン率いるロシア軍主力との決戦に臨むこととなるのです。




    今は静かに眠るロシアの堡塁。

    東鶏冠山10

    旅順要塞は陥ちましたが、他国を侵そうしている今様の旅順要塞は地球上から無くなってはいません。

    旅順を陥とし、日本海の荒波に敵を沈め、日露戦争での勝利をもたらし國難から救って下さった英霊がいつまでも安らかにお休みつづけられる世の中であって欲しいと願っています。

     明治大帝 御製 「おのづから仇のこころもなびくまで 誠の道をふめやくにたみ」 

    旅順戦史を綴るにあたり「国防大辞典」(昭和7年刊行、昭和57年復刻版)を参考にしました。

    ということで、今年110周年を迎える“日本海海戦”を描いた名作がこちら。

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    テーマ : 歴史雑学
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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